私の足跡(その1) 
足跡〜チュニジア編・1993〜

チュニジア国旗

私が最初に訪れた外国はなんとチュニジアだった。

今でこそ、2002年W杯で日本代表が対戦したこともありだいぶ知られるようになったチュニジアだが、当時まだチュニジアをツアーとして売り出していた旅行会社はほんとに少数だった。チュニジアの「地球の歩き方」は普通の版ではなく、フロンティア編として出版されていた。フロンティア編はうすくて写真の掲載が多いものだったと記憶しているが、旅の途中で紛失してしまい、紛失後は一段とドキドキした旅となった。

なぜチュニジアが最初の訪問国となったか。まず私が変わり者だからということもある。人と違ったことをしてみたい。でもやっぱり人がすることもしてみたい。そんな奴だった。なので、この旅ではイタリアも訪問している。

そして、その変わり者の私は、なかなか行くことができない場所のうちオーロラもしくは砂漠の見えるところを最初でそして、当分することのできないであろう旅先の候補地として絞り込んだ。

この2つの場所のうちどちらを最終的に選ぶか。思考過程としてはこうだ。まず、オーロラを見に行く場所はおそらく北欧かカナダだ。この2カ国は退職してからでもいけるだろう(当時は退職まで1箇所で仕事を続けることを想定していた。)。そして、この2箇所は先進国でもあり、設備的にも快適な旅が出来そうだ。それに比較して、砂漠に行くとなると、その候補地としてはアフリカ、もしくは中国あたりか・・・。私の頭の中には、中国よりもアフリカ、それも世界一の砂漠であるサハラ。そうなると、もうジイさんになってからでは体力的にも無理ではないか。

 こうして、最初の海外旅行の行き先はサハラ砂漠を見ることのできる場所とすることとなった。サハラ砂漠は、マグレブ三国であるチュニジア、アルジェリア、モロッコそしてリビアに横たわる広大な砂漠である。当時リビアは渡航禁止なので、他の3カ国となるが、さらにそのうちアルジェリアも内紛状態でこれもムリ。残るはモロッコかチュニジア。モロッコは当時でもツアーがでており、サハラに行くにもメルズーカの砂丘など美しい風景を見ることができる。でも、私は先ほど記したように変わり者である。情報のあまりないチュニジアで決まりだった。

 チュニジア。アフリカといっても地中海に面し、歴史的にも有名なハンニバルの出身地である。そして、バカンスの時期には対岸のヨーロッパ諸国から多くの観光客が押し寄せる。チュニジアン・ブルーの美しい国。

 私の家族は、それまで誰も海外旅行に行ったことはなかった。父はもちろん反対していた。それに、チュニジアに行くとは行ったが、そのチュニジアがどこにあるのかもしらなかったようなので、私は地中海方面に行くといって濁した。




 そして、旅が始まる。

 私はこのときまで国内線でさえも飛行機に乗ったことはなかった。初めての飛行機、飛び立つときの地上から離陸する感覚。機内食。美しい(?)スチュワーデスたち。ちなみにこのときの飛行機はアリタリアであった。(当時、機内食のおいしい飛行機の上位に入っていたと思う。)
インドのニューデリー経由でローマに到着。そして、飛行機をチュニス・エアーに乗り換えてついにチュニジアに上陸した。

 市内に入るのにバスを使おうとするが、まず、言葉がわからない。そして空港から首都チュニス市内に向かうバスもどれに乗ればいいのかわからない。いくら支払えばいいのかもわからない。わからないづくしだった。
 残念ながら今その記憶がだいぶ消えてしまっているのでどのようにバスに乗り、市内に着いたのか定かではない。

 到着した当日は、市内のスークを見て回った。細く暗い道の両脇に小さな店が密集していた。今はお土産として購入してきたアラビアンナイフなどはどこかにいってしまったが、楽しい買い物ができた。

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※イスラムの国ですが、こんな立派な教会もありました。

 翌日。ラマダンの時期だった。私は旅の目的である砂漠をみるためにドゥーズという町にいかなければならなかった。ドゥーズ行きの長距離バスの停留所である男に誘われた。いやらしい意味ではない。私のたっていた場所が悪かったのかもしれない。私はラマダンの時期にシャッターの下りた食堂の前にたっていたのだった。男は、別のところであれば食事できるぞというような感じで話をしていたようだった。
夕刻。イスラムの祈りの声が響きわたる。これこそ、まさにイスラムの国にいるということを感じる一時だった。
さらにバスを待つこと数時間、現地時間で夜10時を過ぎていた。
夜行バスで、サハラの町ドゥーズへ。途中何度かトイレ休憩などを経て朝5:00ごろ目的地についた。朝日がのぼり始めたころだった。

 旅なれない私は、大きなバックを担いで、地球の歩き方フロンティア編を見ながら歩き出した。1時間程度歩いたころだったろうか、ある民家に近づいたころだった。顔に刺青をしたおばさんが現れた。向こうもあまり見たことない東洋人が近づいてきてビックリしただろうが私もビックリだった。こんな部族みたいな人がいるなんて・・・。おそるおそる歩き方の写真を示してどこにこの場所があるのかといいたい雰囲気で歩き方の写真を示した。結局よくはわからなかったかもしれないが、向こうのほうだ的な感じで指で方向を示してくれた。刺青はしていてもいいオバサンだったのだ。

 またとぼとぼと歩きだして少ししたころ、白人の女の子が現れた。かなり安心した。向こうはへんな東洋人が来たと思ったかもしれないが・・・(笑)。英語で聞いてみた。彼女はドイツ人だった。バカンスでチュニジアを訪れているらしい。なぜここにいるのかというと、近くにホテルがあり、朝、付近を散歩しているという。そして、キャメルツアーというのがあり、砂漠を堪能できるということだった。参加してみたらといわれたが、時間がない、今日、ここをたたなければならないというと、一体、何日チュニジアにいるのかと聞かれたので、4日だと答えるとすかさず、クレイジー。もっとたっぷりバカンスを楽しむドイツ人からすると確かにクレイジーだったろう。その後もこの町の人口数千人という少なさを話題にして、こちらもクレイジー。彼女の英語のボキャブラリーとしては頻繁に使うものだったのかもしれない。その後、当時、女子テニスでは最強のグラフの話題もしたりした。
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 ちょっと楽しい時間であったが、その時間にも別れを告げ、また歩き始めた・・・。

 到着するまでかなり時間はかかった。そして、キャメルツアーに参加できるわけでもなく、本当にサハラの北限の入り口だったかもしれない。イメージしていた砂だけの世界ではなく、草木もまばらに生える砂漠であったが、それでも、自分なりにここまで到着したということにしばし感動していた。自分で自分を移せないし、その上、ブサイクでもあるので、カバンだけさばくの上において証拠写真(?)として残した。

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 さあ、そこから町までまた戻ることとなる。日はだいぶのぼり、さすがに砂漠、3月とは言え暑い。かなりの汗をかきながら、フロンティア編を手にしながら(ここが問題だった)、歩くなかで、途中、通学もしくは帰宅途中の子供たちに出会った。またまた、身振り手振りで挨拶しながら歩いた。途中、若い男が私の被っていた野球帽を欲しがり、悪いけど挙げられないなどといいながら歩いていたが、途中休憩していたが、ふと気付いた、まずい、歩き方がない!!衝撃だった。この本を頼りにチュニジアを旅しようとしていた私にとってパスポートの次に重要なこの本がない!!暑さと動揺。でももうあとにもどる元気もなかつたので、町まで歩き、昼食にした。クスクスである。ここのはカレー風味だった。どうだおいしいだろといわんばかりの店の主人。フランス語でおいしいとだけいって、店を出た。

 さあ、これでまた、首都のチュニスに戻ることとなる。長距離バスの出発時間がまた次の日になるような感じだったので、どうするか。そういえば乗り合いの長距離タクシーがあったはずだ。真剣にフロンティア編に書いてあった内容を思い出す。すでに記憶にないが、なんとかして乗り込んだ。現地の人、そして、やはりバックぱっカーのドイツ人が同乗していた。

 砂漠の中の一本道のドライブ。夜行バスでは見えない砂漠の風景が現れた。やっぱり植生はサボテンだった。そして、だんだん北上するにつれてオリーブの畑が並ぶ。

 チュニスに到着。やれやれ。何もわからずして何とか戻ってきた。

 私はもう一度チュニス市内を見て回った。
 そして、チュニジア最後の晩はチュニジア一の立派なホテルに泊まった。快適だった。ここのホテルからはタクシーが出るのでそれに乗って空港まで行った。私のどたばたのチュニジアの旅が一件落着した瞬間だった。

チュニジアの貨幣(’93年当時のもの)

参考までに当時のチュニジアの硬貨をアップしておきます。単位などについての詳細はもう忘却のカナタです(笑)。記憶に残っているのは初めてこの硬貨を手にしたときに香水の匂いがしたことです。におい消しのためだったのでしょうか。

 ※あまりまとまらない記事内容なので、後日修正するかもしれません。また国の情報など随時加えていきたいと思います。
 ご了承ください。
【2007/04/10 Tue 12:03 】 | 日常その他 | comment(13) | trackback(1) |
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